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Vol.37
■稲むらの火■ 「シリーズ地震B」
小泉八雲=原作(英文)/中井常蔵=訳
「これはただごとではない。」とつぶやきながら、五兵衛は家から出てきた。今の地震は、べつにはげしいというほどのものではなかった。しかし、長いゆったりとしたゆれ方と、うなるような地鳴りとは、老いた五兵衛に、今まで経験したことのない不気味なものであった。五兵衛は、自分の家の庭から、心配げに下の村を見下ろした。村では豊年を祝う宵祭りのしたくに心を取られて、さっきの地震にはいっこう気がつかないもののようである。
村から海へ移した五兵衛の目は、たちまちそこに吸い付けられてしまった、風とは反対に波が沖へ沖へと動いて、みるみる海岸には広い砂原や黒い岩底が現れてきた。
「大変だ、津波がやってくるに違いない。」と五兵衛は思った。このままにしておいたら、四百の命が、村もろともひと飲みにやられてしまう。もう一刻も猶予はできない。
「よし。」と叫んで、家に駆け込んだ五兵衛は、大きな松明(たいまつ)を持って飛び出してきた。そこには取り入れるばかりになっているたくさんの稲束が積んである。
「もったいないが、これで村中の命が救われるのだ。」と五兵衛は、いきなりその稲むらのひとつに火を移した。風にあおられて、火の手がぱっと上がった。ひとつまたひとつ、五兵衛は夢中で走った。こうして、自分の田の全ての稲むらに火をつけてしまうと、松明を捨てた。まるで失神したように、彼はそこに突っ立ったまま、沖の方を眺めていた。
目はすでに没して、あたりがだんだん薄暗くなってきた。稲むらの火は天をこがした。山寺では、この火を見て早鐘をつき出した。
「火事だ、床屋さんの家だ。」と、村の若い者は急いで山手へかけ出した。続いて、老人も、女も、子供も、若者のあとを追うようにかけ出した。
高台から見下ろしている五兵衛の目には、それが蟻の歩みのように、もどかしく思われた。やっと20人ほどの若者が、駆け上がってきた。彼らは、すぐ火を消しにかかろうとする。五兵衛は大声に言った。
「うっちゃておけーたいへんだ、村中の人にきてもらうんだ。」村中の人は、追々集まってきた。五兵衛は、あとからあとから上がってくる老幼男女ひとり一人数えた。集まってきた人々は、燃えている稲むらと五兵衛の顔とをかわるがわる見くらべた。そのとき、五兵衛は力一杯の声で叫んだ。
「見ろ、やってきたぞ。」たそがれの薄明かりをすかして、五兵衛の指さす方を一同は見た。遠く生みの端に、細い一筋の線が見えた。その線はみるみる太くなった。広くなった。非常な速さで押し寄せてきた。
「津波だ」と、誰かが叫んだ。海水が、絶壁のように目の前に迫ったと思うと、山がのしかかってきたような重さと、百雷の一時に落ちたようなとどろきとをもって陸にぶつかった。人々は、我を忘れて後へ飛びのいた。雲のように山手は突進してきた水煙のほかは、いっとき何物も見えなかった。
人々は、自分らの村の上を荒れ狂って通る白い恐ろしい海を見た。二度三度、村の上を海は進みまた退いた。
高台では、しばらく何の話声もなかった。一堂は、波にえぐり取られてあとかたもなくなった村を、ただあきれて見下ろしていた。
稲むらの火は、風にあおられて燃え上がり夕闇につつまれたあたりを明るくした。初めて我にかえった村人は、この火によって救われたのだと気づくと、無言のまま五兵衛の前にひざまづいてしまった。
群馬大学教育学部教授 早川由紀夫氏HPより